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「模範解答」教育の功罪 --自己責任と国益をめぐって--

2015/02/22


YES/NOだけがあなたの意見ではない

    私たちは普段の勉強で、「模範解答」と同じものを自分の力で書けるように努力しています。そうしなければ点数をもらえませんし、赤点で追試や補習を受けさせられたり、志望校に入学できなかったりします。

    しかし実際には、早急に「模範解答」を求める姿勢が問題の本質を見えにくくしていることが、よくあります。そして、「批判的思考力」について考える上では、むしろこちらの方が大きな問題なのです。

    非常に単純な形で突きつけられた問題を前に、「AかBか」「YesかNoか」ではなく、その問われ方自体を問い直すこと。つまり、「模範解答」を疑ってみることが、「批判的思考力」を身につけるための第一歩となります。

「普通の人々」?「普通の意見」?

    大抵の場合、人々は自分たちの意見を「模範解答」へと近づけたがる傾向があります。例えば、時々世の中で議題に上る「自己責任と国益」をめぐっての事例を検討してみましょう。

    ここ十年ほど、中東などで武装勢力が日本人を拘束し、日本政府に身代金などを要求する事案が散発しています。この問題に関する「普通の人々」の「普通の意見」が見えやすいのは、視聴者が自分の意見を書き込めるニュースサイトです。

    そこでは、少なくとも私の見てきた限りでは、こういう意見が支配的になるように思われます。

「たった数人の勝手な行動のために国益全体を損なうべきではない」
そして、こういう見解を持つ人々の挙げる根拠は、多くの場合こういうものです。
「数人の利益より国家・国民全体の利益」
「救出に使われる資金は国民全体の血税」
「要求に屈すれば日本人が狙われやすくなる恐れがある」

    なるほど、確かに1つ1つの主張は筋が通っていて納得のいくものです。少なくとも「模範解答」の1つくらいにはなりそうに見えます。これは非常にデリケートな問題ですから、ここでは実際に政府がどのように対応すべきか、といった話をしているのではありません。むしろ、こうした問題の発生を受けて一般の人々がどのような意見を持ちやすいかという点を考察することで、一般の人たちの意見の偏りが浮き彫りになってきます。

    このような「普通の意見」しか出てこない状況で議論が進んでいく中で、その他の重要な部分を見落としてしまうこともあります。

    それを見過ごさないためにも、今ある「普通の意見」を疑うことが重要になってきます。

見えないところに問題の本質がある

    上に挙げたような「模範解答」は、多くの場合「AかBか」「YesかNoか」といった二項対立をポイントとして、対比の議論展開をしています。しかし、この単純な二項対立が批判的思考を阻害している場合があります。

    上の例において第一に挙げられるのは、「数人の利益」が「生命」、「全体の利益」が「金銭」であるという、圧倒的な重みの違いです。

    第二に、現地で拘束された彼等が晒されるのは今まさに命が奪われようかという"Danger"、今ここで見ている私たちが晒されるのは将来的な危険を招く(かもしれない)という"Risk"であるという違いもあります。

    第三に、「たった数人の勝手な行動」という言い方自体、今の世界で何が起こっていて、なぜ彼等はそこへ行ったのか、という問題を見えなくしてしまっています。

    これらの問題点は、自己責任と国益を対比する観点からは、なかなか問われることがないでしょう。まずここでは、それらが簡単に比較できるようなものではないとだけ、おさえておきましょう。

物事を見る立場を変えると、本質が見えてくる

    批判的思考を実践するには、「模範解答」によって与えられた限られた情報の中で考えるのではなく、もう一度その「模範解答」自体を疑う視点に立つことが大切です。そうすることで、より物事の本質が見えやすくなっていくでしょう。

    とはいえ、前節で述べたような問題点に対しては、次のような少々厄介な反論が予想されます。それでも政府の立場からすれば、将来的な国民全体のリスクにも気を配る必要があり、一部の特殊な例外よりも国益全体を重視する必要がある、というような。こうした意見も、ある程度もっともなものに見えます。しかし実は、この「政府の立場からすれば」という部分にこそ問題の本質は潜んでいます。

    なぜ私たちが、「政府の立場から」物事を考え、「国家という観点から」解答しなければならないのでしょうか。政府は国益を考えなければなりませんし、限られた時間内に意思決定しなければなりませんから、「たった数人の勝手な行動のために……」という解答に至ることもあるでしょう。

    しかし、そうしたことに対して何ら責任を負わない我々が、知らず知らずのうちに政府と同じ前提を置いて政府と同じように考え、政府と同じ立場から一応の「模範解答」を出して安心し、それ以上を考えようとしなくなることが問題なのです。

    たった1つの特殊な立場(この場合は政府の立場)から急いで解答を出すことにとらわれなければ、もっと色々なことが見えてくるはずです。

国家よりも小さく、個人として当事者の意志や境遇に対して何か感じることもあるでしょう。
国家よりも大きく、世界全体で何が起こっているかに目を向けることもできるでしょう。

個人として世界と向き合うために

    当たり前に突きつけられた問いと立場をそのまま受け入れ、求められた「模範解答」に飛びつくのではなく、いったん自分の中で噛み砕いて考えてみることで、様々な問題を批判的に考えるということが実践されます。

    漠然と語られる「自己責任」や「国益」の内容を問い直してみたり、漫然と共有された政府の立場を離れてみれば、そこから世界に向き合う個人としての思考が始まります。
これが批判的に物事を考えるということです。

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