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トロッコ問題への反応をめぐって --答えが出ないのになぜ考えるのか--

2015/04/09


『考えることに意義がある?』

    数年前に話題になった「トロッコ問題」をご存知でしょうか?古くから知られている問題ですが、日本でもマイケル・サンデル教授の人気とともに、メディアで取り上げられる機会が増えたようです。それは、下記のような思考実験です。

    かなり重さのあるトロッコが暴走した。このままでは線路の先で作業中の5人に衝突し、彼ら全員が確実に死亡する。いま、あなたは線路脇の切り替えレバーを操作して、トロッコを支線の方に誘導することができる。しかし、そちらでも1人が作業中で、あなたがトロッコを支線へ引き込めば、その1人は確実に死亡する。5人を助けるために1人を犠牲にする選択は許されるか。

    なお、あなたの選べる行動は、ポイントを切り替えるか否かの2通りだけで、他の方法で危険を回避したり、当人たちに危険を知らせたりすることはできないものとする。

    あくまで思考実験なので、他の方法で危険を回避したり、危険を知らせたりというのは反則なのですが、それでも「トロッコを脱線させる」「大声で危険を知らせる」などの答えがインターネット上では目立ちました。無理もありません。たった2つの許された答えのどちらを選んでも、必ず誰かの命を損なうことになるのです。ポイントを切り替えれば「その1人は君が死なせたも同然だよ?」と責められ、切り替えなければ「何もせずに5人も見殺しにしたの?」と咎められます。

    あなたは「仕方ないじゃないか」と思うでしょうか。そう、確かに「仕方ない」のです。とはいえ、直接手を下して1人を死に至らしめることも、それを恐れて5人も見殺しにするのも、「仕方ない」ではすまされない悲惨な結末でしょう。この後味の悪さを強く意識する人々が、ルールを勝手に歪めて誰も傷つけない「正解」を出そうとするのも、分からなくはありません。

    では、それでもあえてルールを守ってこの問題を考えることには、どのような意味があるのでしょうか。月並みな言い方ですが、出ない「正解」を求めるよりは、やはり考えること自体に意義があるということになりそうです。答えが出ないものを考えることにどんな意味があるのか。このことを、順を追って検討していきましょう。

『「仕方ない」答えと「正しい」答え』

    まず、この問題には「正解」がないという事実を認めなければなりません。どちらの選択肢にも重大な欠点があり、それに対する反論が簡単に思いつく場合、その問題に「正解」はないのです。

    この問題では、どちらを選んでも自分が他者を死に追いやることは同じです。そして、どんな場合でも、人に死をもたらす決定を正当化する理屈など何一つありません。ゆえに、どちらを選んでも「仕方ない」かもしれませんが、「正しい」と言い切ることはできません。

    よく誤解されるのですが、「仕方ない」ということと「正しい」ということは全く異なります。この問題に限ったことではありません。例えば、死刑については賛否両論ありますが、それは死刑制度が「必要悪」か「不必要悪」かの議論であって、なくすことができるならそれにこしたことはないというのは両陣営とも合意するところでしょう。同様に、中東などの人質事件で政府が邦人数名のために身代金を払わない決断をした場合、その決断は「全体としての国益」あるいは「国際社会との協調」を考慮したものであり、それらを損なわずに救出する方法があれば、それを選ばない理由はないでしょう。

    もちろん、実際に決断を迫られる立場に立ったら、1人か5人か、いずれか一方に犠牲を強いる決断をしなければなりません。それは確かに「仕方ない」ことかもしれませんが、あたかもそれが「正しい」かのごとく装って、自らの決断の正当性に居座ってはならないのです。

『なぜ「正解」にしがみつくのか』

    以上のように、この問題では「正解」を出すことはできません。にもかかわらず、なぜ私たちは「正解」にこだわってしまうのでしょうか。次は、このことについて考えなければなりません。

    この場合、「正解」というのは誰もが納得できる答えのことです。それはおそらく、与えられた2つの選択肢とは異なり、誰も傷つけることのない選択を指します。しかし、そういう答えはこの問題では許されていません。それなのに多くの人がそれを求めてしまうのは、前述のとおり、選んだ結果の後味の悪さを恐れるためでしょう。

    この問題は、単純な外見とは裏腹に、かなり複雑な要素を孕んでいます。例えば、直接手を下して人を死なせることと見殺しにすることは同じか、1人の命と5人の命を秤にかけることはできるか、等々。人々は、おそらくこの複雑さの中で複雑な選択を迫られるのを嫌い、単純に割り切った答えで自分と相手を納得させて、心のモヤモヤをスッキリさせたいのでしょう。 もちろん、複雑な問題を単純に割り切ってスッキリしたい気持ちは非常によく分かります。しかし、複雑な問題は実際に複雑なまま出されているのですから、残念ながら複雑なまま考えなければなりません。たとえ「正解」が出ないとしても、です。

『スッキリしたらダメです』

    ここまでで、この問題に「正解」がないこと、それにもかかわらず私たちは「正解」にしがみついてしまうこと、これら2つについて批判的に意識できたことでしょう。ここからは、自分の答えを正当化してはならない理由について説明します。それは一言で言うと、物事を過度に単純化して都合の良い一部分しか見ないことが、その決断を下した本人の責任逃れになるということです。

    既に見てきたように、選択に伴う弊害は確かに「仕方ない」場合が多々あります。決断のためには何らかの基準を決めて、それに従って取り返しのつかない選択へ踏み込む覚悟が必要なのも事実です。しかし、それはあくまで「仕方ない」ものであり、それによって生じた損害は、守られた利益とは別個に考えなければなりません。

    たとえ5人の命と引き換えだったとしても、その1人にとってはただ1つ、かけがえのない命です。もちろん逆の場合も同様です。そして、それらが失われたことの責任は、その決断を下した自分自身にあるのです。これを受け止めなければなりません。スッキリ割り切って安心することなど到底できないでしょう。

『正当化せず受け止める、という選択』

    それでは、結局のところ、私たちはこの問題をどう考えるべきなのでしょう。手際よくまとめられている「○○主義の立場からは○○が正解」といった答えが意味を為さないのは既に明白です。大事なのは、どういう理論で自分の決断を正当化するか、ではなく、どう答えても反論があることを受け容れ、自分自身の決断の結果を受け止めるということです。この点で、反則に走ってでもスッキリ納得したい、あるいは、悪い部分は見ないようにしたいと思う、そんな自分の弱さを明確に意識できただけでも、考えた意味はあると言えそうです。

    ここで、少し視点を変えてみましょう。どちらとも決断できずスッキリした答えにこだわってしまうのは、私たちの弱さであるとともに美徳でもあるのではないでしょうか。どちらも一定の長所と短所のある2つの選択肢ですが、「短所」はいずれも取り返しのつかないものです。これを避けたいと願う気持ちは、私たちの尊ぶべき人間らしさと言えましょう。

    もちろん、勝手にルールを変えるのは許されませんが、このことを意識している限り、最終的に2つの選択肢のいずれを選んだとしても、自分の決断を正当化して安心するような間違いは起こしません。同時に、自分以外の誰かがその決断を迫られたとして、このことを充分に考える人ならば、決断する本人が「答えの出ない問題」に巻き込まれていることを理解し、これを思いやることさえできるのではないでしょうか。

    少なくとも、既存の理論や主義に従って自分の行動を正当化し、同じ基準でもって他者の行動を糾弾し、その枠組みの中から一歩も出てこないということは避けられるはずです。あまりにも単純な形で問われたこの問題は、自分の価値観や理念の通用しない場所へ出て来るように、私たちを今日も促しているかのようです。

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