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風が吹けば桶屋が儲かる - 難関大学合格者に100万円!? -

2015/03/02


なぜ人は無理な論法を使ってしまうのか

    2014年11月、九州南部のある市が、市内にある県立高校への入学者を集めるため、奨励金制度を導入しました。内容は、旧帝大をはじめとする最難関大学への合格者に対して100万円、その他の難関大学への合格者に対して30万円の奨励金を支給するというものです。この制度の導入は「教育はどうあるべきか」をめぐって大きな議論を引き起こしましたが、同時に綺麗事では乗り切れない疲弊した地方の現状という問題も投げかけているようです。

    対象となった高校では近年、志望者の減少が著しく、県教育委員会から1学年2学級への削減を通告されていました。これに対して市長は、このまま高校が廃校になってしまうと、地域の人口減少に拍車がかかるし、制服や文具やスポーツ用品など、高校生を対象とする店舗が打撃を受けて地域経済が不活発になり、地域からの転出者が増えて、市が衰退すると考えました。そこで、市の担当部署や高校の校長と話し合った結果、近年の志願者減少は同校の進学実績が振るわないからだという結論に達しました。そして、実績向上のためにはインパクトある支援策が必要として、市議会の承認を経て制度の導入を決めたという経緯のようです。この時点で、1)高校の校長、2)市長と市の担当部署、3)市議会多数派の少なくとも3者が、この制度に対して肯定的であったことがわかります。その結果、5年で5000万円もの予算が組まれ、市と高校が一丸となって生徒を難関大学へ送り込もうという協力体制が組まれたのでした。

    これが全国で報道されると、その反響は賛否両論といったところでした。著名な教育評論家がブログで「反教育の極み」「教育犯罪」と糾弾したり、それに市や学校が反論したり、他の有識者が擁護したり、インターネット掲示板で議論になったりしました。しかし、この制度を導入する市や学校の論法が適切かどうかについては、あまり触れられていないように思います。ここでは、無理のある前提を置いたり飛躍のある論法を駆使したりする人は、自分でも気付かぬうちに、見当違いな狙いを見当違いな相手に託していることがあるということに注意しながら、この問題の根本に何があるのかを考えたいと思います。その前に、既存の論点を整理してみましょう。

「理想か現実か」で良いのか

    この問題については、「教育の理想」か「地域の現実」か、いずれかに肩入れするものが多いように見えます。

    まず、これに批判的な見解としては、さきに述べた教育評論家のものが(賛否両論ですが)影響力を持っています。具体的には、「現金で釣るとはあさましい」「5000万円もあれば教育のレベルを上げられるはず」といった内容です。要するに、お金で優秀な生徒を集めて進学実績を稼ぐ制度は、優れた人を育てるという教育本来の目的に違反しているということです。

    市長はこの意見を受けて、「そうした批判は過疎に悩む地方の現状を知らない県外からのものが殆どだ」と反論しました。また同校の教頭は「批判の電話は県外から数件あったが県内からは1件もない」と述べました。すなわち、地元の苦境を知る人々はこの制度を充分に理解し評価してくれていて、現場の実態を知らない県外からの批判は綺麗事に過ぎない、ということでしょう。

    こうした反論が出されると、別の教育評論家は「過疎化が進む地域の競争手段として定着すれば中央と地方との格差の縮小にもなる」として市の決定を支持し、他の自治体にも薦めていく考えを表明しました。さきの評論家と比較すると、「教育はどうあるべきか」という理想論よりは、「疲れている地方をどう立て直すか」という現実論に軸足を置いているように見えます。

    既存の論点は大体こんなところでしょう。批判する側は「良い人材を育てるという教育の理念にもとる」、擁護する側は「地域の厳しい現状の前に綺麗事は不要」というのが、基本的な立場のようです。前者は教育の改善を、後者は地域の振興を目的としたもので、いずれも部分的にはもっともですが、話が噛み合わず結論も出にくいと思われます。

二択以外の可能性は無いのか

    こうした難しい対立状況から、私たちはどのように自分の意見を導き出せるでしょうか。後から考える立場は、どうしても「教育の理想」と「地域の現実」の二択から選ぶものになりがちですが、それだけでは別の可能性を切り捨ててしまうことに注意が必要です。さきに紹介した評論家の意見にあるように、5000万円の予算を別の方法で使って教育内容を改善し、優秀な生徒を「育てる」ことで、結果的に進学実績をも上げていくといったことも考えられます。こうしたことが可能であれば、「理想か現実か」の二択は見かけ上のものに過ぎません。おそらくこの部分こそ、このニュースを批判的に受け止めた人が最初に気付いた点ではないでしょうか。

    ここではさらに、進学実績を上げることが過疎の地域への救いを本当にもたらすかどうかを考えていきましょう。冒頭で述べた市長の考えを、もう一度ふりかえってみてください。すると、ここでの地域振興の図式が、あまりにも迂遠で、「風が吹けば桶屋が儲かる」に近い論法であることに気付かされます。

  1. 1)奨励金制度


  2. 2)進学実績向上


  3. 3)志願者増加


  4. 4)1学年3学級確保


  5. 5)学校関連の消費増加


  6. 6)地域経済の活性化


  7. 7)人口流出の防止


  8. 8)地域衰退に歯止め

    最終的な目標が「8)地域衰退に歯止め」であるならば、途中に幾らでも改善できる点がありそうです。特に「4)1学年3学級確保」→「5)学校関連の消費増加」→「6)地域経済の活性化」というあたり、1学年100人程度の小規模高校1つ、その生徒たちの制服や学用品での消費に、地域振興と地域経済の行く末を背負わせるようなことを、市や学校は本気で考えているのでしょうか。

「前提の前提」を考える

    間違った前提や無理のある論法が使われている場合、そこには知らず知らずのうちに、別の狙いが託されている場合があります。ここまでの検討で、この制度の狙いが手段と目的を上手くつなげていない、かなり無理のあるものだということが分かってきました。それでも市や学校や議会が一体となり、この方法を救いと信じて突き進むのは、(これは憶測に過ぎませんが)関係者たちが何か地域振興とは別の期待を寄せているからである可能性があります。

    少し視点を変えてみましょう。この制度が教育の理念に反するとして批判するのなら、本来あるべき教育の理念とは何でしょうか?あるいは、この制度が教育でないのだとすれば、はたして何に似ているでしょうか。

    教育の理念は、先程から何度か述べているとおり、人を育てることにあります。人を育てることには、人格の育成や学力の向上など様々な側面があります。そして、この制度が重点を置くのは学力の面です。しかし、これまでの教育の理念と大きく異なっているのは、優れた学力を持つ生徒を自ら育てるのではなく、既に優秀である生徒を集めることによって他の利益を引き出そうとしている点です。すなわち、これは既に「投資」ないし「博打」の発想なのです。

    特にバブル以降の教育産業について、その本質が「投資」に近いものに変容しているという研究は既にあります(秋元健太郎「投資としての教育」遠藤知巳(編)『フラット・カルチャー――現代日本の社会学』せりか書房、2010年、256-263ページ)。同論文では、愛情をかけるべき人間形成から金銭をかけるべき能力開発への教育概念の変容、そして、投資を回収できないことからくる親子双方の不安と不満を活写しています。

    それでは、この制度はどうでしょうか。実は、この賭けが始まった時点で、市や学校は生徒に対して何の投資をもしていません。市や学校の側から見れば、負けても何の損害もなく、いつでも手を引ける勝負なのです。この点が、投資教育で子供への賭け金を釣り上げながら子供を追い込んでいく両親の事例とは異なっています。他方、賭けの対象とされた生徒たちは、両親の投資対象とされた子供たちと同様に、自分が賭けの対象となっていることを強く意識しながら勉強を続けていくことになります。このことは、彼らの意識にどんな影響を与えるでしょうか。

    さきに紹介した教育産業に関する論文では、親の投資を回収できない子供は、期待に応えられないことについての罪悪感にさいなまれるとされています。しかし、これが成り立つのは、親が(結果として子供を追い詰めることになるとはいえ)少なくとも本当に子供のためを思っており、子供もまた(そのことで親を憎んでいるとはいえ)少なくとも親のその思いを感知し理解している場合に限られます。今回の事例のように、大人たちの自分たちへの「投資」が自分たちの頭上を飛び越えて、ハッキリ何か他のものへと賭けられている場合、子供たちは大人たちの期待に対してどのような態度をとるでしょう。おそらく、自分のことを考えてくれているのを強く意識するがゆえの怒りや憎しみなどではなく、どこか諦めたような、クールでビジネスライクな振る舞いを選ぶのではないでしょうか。

見過ごされた立場に気付くために

    与えられた二択を拒否し、それぞれの立場の前提を疑ってみることで、気付かぬうちに見当違いな狙いを託された別の立場に気付くこともあります。この場合、初めから自分自身が投資の対象として見られ、自分自身の努力が何か別の目的に賭けられていることを意識して、大人たちをそういうものとして割り切った子供たちの冷めた目つきを想定することができました。

    ここにおいて、私たちは何をすることが出来るでしょうか。実際のところ、そうしてまで守らなければならないものが現場にあるのなら、もしかすると仕方ないのかもしれません。しかし可能であれば、こうした市や学校とは違った価値観を伝える大人と、子供たちの目に触れる何か別の選択肢と、そういったものがあっても悪くはないでしょう。

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